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2016年11月16日水曜日

夏目漱石、夢の8つめ[床屋]


〜夏目漱石『夢十夜』より〜





第八夜


 床屋の敷居を跨またいだら、白い着物を着てかたまっていた三四人が、一度にいらっしゃいと云った。
 真中に立って見廻すと、四角な部屋である。窓が二方に開あいて、残る二方に鏡が懸かかっている。鏡の数を勘定かんじょうしたら六つあった。
 自分はその一つの前へ来て腰をおろした。すると御尻おしりがぶくりと云った。よほど坐り心地ごこちが好くできた椅子である。鏡には自分の顔が立派に映った。顔の後うしろには窓が見えた。それから帳場格子ちょうばごうしが斜はすに見えた。格子の中には人がいなかった。窓の外を通る往来おうらいの人の腰から上がよく見えた。
 庄太郎が女を連れて通る。庄太郎はいつの間にかパナマの帽子を買って被かぶっている。女もいつの間に拵こしらえたものやら。ちょっと解らない。双方とも得意のようであった。よく女の顔を見ようと思ううちに通り過ぎてしまった。
 豆腐屋とうふやが喇叭らっぱを吹いて通った。喇叭を口へあてがっているんで、頬ほっぺたが蜂はちに螫さされたように膨ふくれていた。膨れたまんまで通り越したものだから、気がかりでたまらない。生涯しょうがい蜂に螫されているように思う。
 芸者が出た。まだ御化粧おつくりをしていない。島田の根が緩ゆるんで、何だか頭に締しまりがない。顔も寝ぼけている。色沢いろつやが気の毒なほど悪い。それで御辞儀おじぎをして、どうも何とかですと云ったが、相手はどうしても鏡の中へ出て来ない。
 すると白い着物を着た大きな男が、自分の後うしろへ来て、鋏はさみと櫛くしを持って自分の頭を眺め出した。自分は薄い髭ひげを捩ひねって、どうだろう物になるだろうかと尋ねた。白い男は、何なにも云わずに、手に持った琥珀色こはくいろの櫛くしで軽く自分の頭を叩たたいた。
「さあ、頭もだが、どうだろう、物になるだろうか」と自分は白い男に聞いた。白い男はやはり何も答えずに、ちゃきちゃきと鋏を鳴らし始めた。
 鏡に映る影を一つ残らず見るつもりで眼を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはっていたが、鋏の鳴るたんびに黒い毛が飛んで来るので、恐ろしくなって、やがて眼を閉じた。すると白い男が、こう云った。
「旦那だんなは表の金魚売を御覧なすったか」
 自分は見ないと云った。白い男はそれぎりで、しきりと鋏を鳴らしていた。すると突然大きな声で危険あぶねえと云ったものがある。はっと眼を開けると、白い男の袖そでの下に自転車の輪が見えた。人力の梶棒かじぼうが見えた。と思うと、白い男が両手で自分の頭を押えてうんと横へ向けた。自転車と人力車はまるで見えなくなった。鋏の音がちゃきちゃきする。
 やがて、白い男は自分の横へ廻って、耳の所を刈かり始めた。毛が前の方へ飛ばなくなったから、安心して眼を開けた。粟餅あわもちや、餅やあ、餅や、と云う声がすぐ、そこでする。小さい杵きねをわざと臼うすへあてて、拍子ひょうしを取って餅を搗ついている。粟餅屋は子供の時に見たばかりだから、ちょっと様子が見たい。けれども粟餅屋はけっして鏡の中に出て来ない。ただ餅を搗く音だけする。
 自分はあるたけの視力で鏡の角かどを覗のぞき込むようにして見た。すると帳場格子のうちに、いつの間にか一人の女が坐っている。色の浅黒い眉毛まみえの濃い大柄おおがらな女で、髪を銀杏返いちょうがえしに結ゆって、黒繻子くろじゅすの半襟はんえりのかかった素袷すあわせで、立膝たてひざのまま、札さつの勘定かんじょうをしている。札は十円札らしい。女は長い睫まつげを伏せて薄い唇くちびるを結んで一生懸命に、札の数を読んでいるが、その読み方がいかにも早い。しかも札の数はどこまで行っても尽きる様子がない。膝ひざの上に乗っているのはたかだか百枚ぐらいだが、その百枚がいつまで勘定しても百枚である。
 自分は茫然ぼうぜんとしてこの女の顔と十円札を見つめていた。すると耳の元で白い男が大きな声で「洗いましょう」と云った。ちょうどうまい折だから、椅子から立ち上がるや否や、帳場格子ちょうばごうしの方をふり返って見た。けれども格子のうちには女も札も何にも見えなかった。
 代だいを払って表へ出ると、門口かどぐちの左側に、小判こばんなりの桶おけが五つばかり並べてあって、その中に赤い金魚や、斑入ふいりの金魚や、痩やせた金魚や、肥ふとった金魚がたくさん入れてあった。そうして金魚売がその後うしろにいた。金魚売は自分の前に並べた金魚を見つめたまま、頬杖ほおづえを突いて、じっとしている。騒がしい往来おうらいの活動にはほとんど心を留めていない。自分はしばらく立ってこの金魚売を眺めていた。けれども自分が眺めている間、金魚売はちっとも動かなかった。





引用:青空文庫
夏目漱石「夢十夜」