2016年11月21日月曜日

道元「正法眼蔵」1



(たきぎ)と灰


(たきぎ)は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になるわけがない。だが、そうであっても、灰は後(のち)、薪は先(さき)と見てはいけない。

知るべきである、薪は薪としてのあり方において、先があり後がある。前後があるといっても、その前後は断ち切れていて、あるのは現在ばかりである。

灰は灰のあり方において、後があり先がある。薪が灰となった後、再び薪とならないように、人は死んだ後、再び生(しょう)にはならない。


たき 木、はひ(い)となる、さらにかへ(え)りてたき木となるべきにあらず。

(たきぎ)は燃えて灰となるが、もう一度元に戻って薪になるわけがない。









身心脱落(しんじんだつらく)


悟りたいという「邪心」は自我意識。自我意識があるから、私たちはいがみ合う。自我意識は「角砂糖」のようなもの。ぶつかり合うと崩れてしまう。

その角砂糖をお湯のなかに放り込んでしまえば、すべてが溶けて一つとなる。悟りはいわば、そのお湯のごとし。



自分のほうから宇宙の真理を悟ろうとするのは迷いであり、宇宙の真理のほうからの働きかけでもって自分を悟らせてもらえるのが悟りである。

自己をはこびて万法を修証するを迷(まよい)とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

角砂糖たる我が、お湯に飛び込もうとするのは「迷い」。お湯のほうからやって来る。



現実世界の諸物を仏の教えでもって眺めるなら、すなわち仏道修行の観点から見れば、そこには迷いと悟りがあり、修行があり、生があり、死があり、諸仏があり、衆生がある。

現実世界を「われ」という立場を離れて眺めるとき、すなわち身心脱落(しんじんだつらく)したのちには、迷いもなく悟りもなく、諸仏なく衆生なく、生もなく滅もない。

諸法の仏法なる時節、すなは(わ)ち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひ(い)なくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

『現成公案』より






芥川龍之介『蜘蛛の糸』


地獄に落ちたカンダタは、仏の垂らした蜘蛛の糸にとりすがり、ひとり助かろうと登っていく。ところが下を見ると、無数の亡者たちが細い蜘蛛の糸をよじのぼってくるではないか。

カンダタは叫んだ。

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ」

その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。






ひろさちやは言う。

他人に「下りろ」と言うのは、自分の身心であり、ひとりだけ助かろう(悟ろう)とする邪心。蜘蛛の糸に群がる罪人たちは、いわば自分のなかの他人の身心。

本来、お釈迦さまの糸が切れることはない。たとえ、何千何万の罪人たちがとりすがろうと。では、なぜカンダタの糸は切れてしまったのか? それは、糸が切れるというカンダタの恐怖心のなせるわざ。

自分一人でさえ断れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で断れたと致しましたら、折角ここへまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落としに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら、大変でございます。

今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。


カンダタの恐怖心は、他人を意識したことによって生じたものだった。

身心脱落には、自己も他己もふくまれる。

自分のなかの他人をも身心脱落させよ、と道元は説く。






仏道をならうことは、自己をならうことだ。

自己をならうことは、自己を忘れることだ。

自己を忘れることは、宇宙の真理に目覚めさせられることだ。

宇宙の真理に目覚めさせられることは、自分の身心(しんじん)を脱落させることである。






出典:NHK100分de名著「道元 正法眼蔵」




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