2016年11月21日月曜日

道元「正法眼蔵」2




ひとりの男が木の上で、口で枝をくわえて宙ぶらりんになっていました。

木の下に人がやって来て、質問します。

「中国に禅を伝えたダルマ大師は、なんのためにインドからやって来たのでしょうか?」



これは、仏教の根本の意味は何か、という問いに等しいものです。

男は質問に答えれば、木から落ちて死んでしまい、答えなければ仏教の修行者でなくなります。さあ、どうするか?






道元の解釈は、独特なものでした。

この「 樹の下に突如として人がやって来る」というのは、「樹の内部に人がいる」と言っているようなものであり、人樹なのだ。それはまさに「人の下に突如として人がやって来て問うた」ことになる。

そうであれば、樹が樹に問い、人が人に問うているのであり、樹の全体が問うことの全体であり、西来意(せいらいい)の全体が西来意を問うているのだ。

西来意を問うときは、西来意をくわえて問うのである。

※「西来意(せいらいい)」…ダルマ大師がインドから中国に渡った意味







解決できると思えば「迷う」。



はなにも月にも今ひとつの光色おもひ(い)かさねず、はるはただはるながらの心、あきも又あきながらの美悪(よしあし)にて、のがるべきにあらぬを、われにあらざらんとするには、われなるにても、おもひ(い)しるべし。



昔から自然に言われていることがある。すなわち、魚でなければ魚の心を知らず、鳥でなければ鳥の跡を尋ね難い、と。

この道理は仏にもある。仏が幾世にもわたって修行されたと思われることは、小さな仏も、大きな仏も、その数えきれぬ期間を数え落とすことなく、知っておられるのだ。

魚は水を泳ぐが、いくら泳いでも水の果てはなく、鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空の果てはない。そして、魚も鳥も、いまだ昔より水や空を離れたことはない。

「唯仏与仏」の巻より



ヒンズー教にいう「自力」と「他力」のたとえ




「迷い」と「悟り」は、一枚のコインの裏表。

人間の生きる世界が「迷い(生死)」であり、「悟り」が涅槃。



悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて来(きた)れるゆえに、悟りとは、ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる。



「生死(しょうじ)の中に仏があれば、生死はない」

また言う。

「生死の中に仏がなければ、生死に迷わない」

ただ、生死がそのまま涅槃だと心得て、生死であるからといっても 忌避せず、涅槃であるからといって願ってはならぬ。そうしたとき、はじめて生死を離れる手立てができる。



ただ、わが身をも心もはなちわすれて、仏のいへ(え)になげいれて、仏のかたよりおこなは(わ)れて、これにしたがひ(い)もてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひ(い)やさずして、生死をはなれ、仏となる。





出典:NHK100分de名著「道元 正法眼蔵」




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