ひとりの男が木の上で、口で枝をくわえて宙ぶらりんになっていました。
木の下に人がやって来て、質問します。
「中国に禅を伝えたダルマ大師は、なんのためにインドからやって来たのでしょうか?」
これは、仏教の根本の意味は何か、という問いに等しいものです。
男は質問に答えれば、木から落ちて死んでしまい、答えなければ仏教の修行者でなくなります。さあ、どうするか?
道元の解釈は、独特なものでした。
この「 樹の下に突如として人がやって来る」というのは、「樹の内部に人がいる」と言っているようなものであり、人樹なのだ。それはまさに「人の下に突如として人がやって来て問うた」ことになる。
そうであれば、樹が樹に問い、人が人に問うているのであり、樹の全体が問うことの全体であり、西来意(せいらいい)の全体が西来意を問うているのだ。
西来意を問うときは、西来意をくわえて問うのである。
※「西来意(せいらいい)」…ダルマ大師がインドから中国に渡った意味
解決できると思えば「迷う」。
はなにも月にも今ひとつの光色おもひ(い)かさねず、はるはただはるながらの心、あきも又あきながらの美悪(よしあし)にて、のがるべきにあらぬを、われにあらざらんとするには、われなるにても、おもひ(い)しるべし。
昔から自然に言われていることがある。すなわち、魚でなければ魚の心を知らず、鳥でなければ鳥の跡を尋ね難い、と。
この道理は仏にもある。仏が幾世にもわたって修行されたと思われることは、小さな仏も、大きな仏も、その数えきれぬ期間を数え落とすことなく、知っておられるのだ。
魚は水を泳ぐが、いくら泳いでも水の果てはなく、鳥は空を飛ぶが、いくら飛んでも空の果てはない。そして、魚も鳥も、いまだ昔より水や空を離れたことはない。
「唯仏与仏」の巻より
ヒンズー教にいう「自力」と「他力」のたとえ |
「迷い」と「悟り」は、一枚のコインの裏表。
人間の生きる世界が「迷い(生死)」であり、「悟り」が涅槃。
悟りよりさきにちからとせず、はるかに越えて来(きた)れるゆえに、悟りとは、ひとすぢにさとりのちからにのみたすけらる。
「生死(しょうじ)の中に仏があれば、生死はない」
また言う。
「生死の中に仏がなければ、生死に迷わない」
ただ、生死がそのまま涅槃だと心得て、生死であるからといっても 忌避せず、涅槃であるからといって願ってはならぬ。そうしたとき、はじめて生死を離れる手立てができる。
ただ、わが身をも心もはなちわすれて、仏のいへ(え)になげいれて、仏のかたよりおこなは(わ)れて、これにしたがひ(い)もてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひ(い)やさずして、生死をはなれ、仏となる。
出典:NHK100分de名著「道元 正法眼蔵」
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