2012年7月5日木曜日

光合成のカギを握る「ゆがんだ椅子」


世の中、「知っているようで知らないこと」は驚くほど多い。

たとえば、「光合成」というのもそうだ。おおよそ植物と呼ばれる者たちならば、「誰でも出来る」この光合成のシステムを、人類はいまだに知らないのである(名前だけなら小学生でも知っているのだが…)。





◎光合成という言葉が生まれるまで


人類が光合成に気づき始めたのは、今からおよそ230年前。

ヤン・インゲンホウス(オランダ)は、水中の水草がプクプクと出す空気が、明るいところでしか出ないこと、つまり、「植物が光を使って気体を発生させること」を発見した(1779)。そして、植物の発する気体が「酸素」であることまで突き止めた。

その15年後、ニコラス・テオドール・ド・ソシュール(スイス)は、それまで植物が根っこから吸収していると思われていた二酸化炭素が、じつは空気中から取り込んでいること、そして、その二酸化炭素なしでは植物が生きていけないことを発見した(1804)。

そして、肝心の「光合成(Photosynthesis)」という言葉が生まれるのは、今から120年前、明治期の日本が日清戦争を戦っていた頃のことである。



◎「ゆがんだ椅子」の発見


20世紀に入ると、光合成のより詳しい過程が次々と明らかになり、それらを発見した人々は、次々とノーベル賞をもらっていった。

そして昨年(2011)5月、サイエンス専門誌「ネイチャー誌(イギリス)」に掲載された、光合成に関する一つの論文に化学者たちの目は釘付けになった。ひときわ輝きを放っていたその論文はその年の暮れに「サイエンス誌(アメリカ)」によって、2011年の「科学10大成果」の一つに数え上げられた。





その論文には何が記されていたのか?

それは「ゆがんだ椅子」であった。そう名付けられたのは、新たに発見された「結晶の構造」がそう見えたからである。また、その椅子は「箱型の心臓(Boxy Heart)」とも呼ばれた。なぜなら、この結晶が植物の光合成における心臓と言えるほどに重要であったからである。

このエポック・メイキングな発見を成したのは、日本人である沈建仁・神谷信夫両教授であった。この時の科学界の興奮は「DNAの2重ラセン構造」を発見した時のようだったと、ある化学者は語る。

Source: ecosci.jp via Hideyuki on Pinterest




◎20年かかった結晶化


なぜ、今の今までこの重要な結晶が発見されずにいたのかと言えば、この結晶が位置していたのが、19個のタンパク質からなる巨大で複雑な「PS(光化学系)Ⅱ」の奥の奥にあったからでる。

しかも、このPSⅡは膜の中に埋め込まれていた。このような「膜タンパク質複合体」は、ただでさえ扱いが極めて難しいのである。





幾多の研究者たちは、この結晶を作ることに失敗してきた。そして、沈建仁教授(岡山大学)も、挑んでは敗れた研究者の一人であった。

彼が初めてPSⅡの結晶化に成功したと思ったのは20年前。しかし、沈氏が結晶だと主張するそれのX線解析データを見た神谷信夫教授は、それがどうしても結晶だとは思えなかった。

神谷氏が「結晶ではない」と伝えた時、沈氏はひどく落胆した。「その時の顔は今でも覚えています」と神谷氏。あまりにも気の毒に思った神谷氏は思わず、「いや、少しは可能性があるかも…」と口からデマカセを言ったほどだったという。

沈氏が結晶化しようとしていた酵素は、熱や湿度に極めて敏感で、取り出すとすぐに壊れてしまうのだった。取り出しては壊れ、取り出しては壊れ、取り出しては壊れ…、最初の10年間はまるで無成果だったという。



◎「Spring-8」の実力


それから20年、一つの結晶にこだわり続けた沈氏の執念もさることながら、幸いにも結晶を解析する科学技術も飛躍的に向上した。

兵庫県にある「Spring-8」という世界最高性能をもつ大型の放射光施設は、沈氏の高すぎる要求に見事応えてくれた。世界最高の明るさを誇るSpring-8の解析力は、「オングストローム」という聞き慣れない単位の世界をも明らかにしたのである(オングストロームというのは、ナノの世界のさらに10分の1)。

「Spring-8ができ、結晶化もうまくいくようになり、両方のタイミングが重なったことが今回の成功の一因です」と沈教授。





◎ゆがんだ椅子は「不安定」


こうして明らかになった「ゆがんだ椅子」。その構成要素は、「マンガン(4)・カルシウム(1)・酸素(5)・水(4)」という、あっけないほどありふれた者たちであった。

ここでより重要なのは、その構成要因というよりは、その「形」であった。沈教授は語る、「このような不安定な構造をとっていることで、柔軟に構造を変化させることができ、触媒として働くことができるのです」



「触媒」というのは、ある反応を起こりやすくする物質のことである。たとえば、ある反応が壁に阻まれていたとしたら、触媒はその壁を低くする作用を持つのである。

「ゆがんだ椅子」が押し進める反応というのは、「水を分解して酸素を発生させる」という光合成の核心部分の反応である。



椅子も座り心地が良すぎれば、リラックスして長居してしまう。ところが、その椅子の座り心地がグラグラと不快だったらどうか。たとえば、ゆがんでいたり…。そう長くは座っていられまい。

「ゆがんだ椅子」の不安定さは、一度そこに座った「水」を長居させずに、「はい次、はい次」と流れ作業のように、次々と反応を連鎖させていくのである。



◎次世代エネルギーへの道


PSⅡという巨大なタンパク質複合体が、水を分解して水素と酸素を発生させていることは、だいぶ前から知られていた。しかし、その心臓部である「ゆがんだ椅子」の存在は誰も知らなかった。沈教授の20年にもわたる執念が、その完全な構造を世界で初めて解明したのである。

DNAの2重ラセン構造が明らかになって、遺伝子技術が飛躍的な発展を遂げたのと同様、「ゆがんだ椅子」の解明は次世代のエネルギー革命にもつながりうる可能性をもつ。

光合成の心臓部の設計図が明らかになった今、人工的に光合成を行い、そこからエネルギーを生み出す道が開けたのである。



光合成という極めて効率的なエネルギー発生システムが必要とするのは、「光・水・二酸化炭素」というシンプルさ。

ここで注目すべきは、有機物を一切必要としていないことである。有機物というのは、人間でいえば食物のことであり、人間は食べなくては生きられない。それに対して、純粋に光合成のみで生きる生物は、一切のエサを必要としないのである。つまり、食べなくても生きられるのだ。



◎夢物語がいよいよ…


もし、「光・水・二酸化炭素」だけから人間社会に必要な電気やガソリンのようなエネルギーを作り出せたら?

それは夢のような世界である。もう深海や北極まで行って石油を掘る必要はなくなるかもしれないということである。もちろん、手間ヒマかけてわざわざ核を分裂させる原発も必要としなくなるかもしれない。

いやむしろ、今は増えすぎて厄介者とされている二酸化炭素が、新たなエネルギー源ともなりうるのである。根岸英一氏(ノーベル賞受賞者)は、「CO2は悪者どころか、これからもっと必要になる」とまで断言している。

「ゆがんだ椅子」の発見は、これらの夢物語を現実世界に一歩も二歩も近づけたことになる。



◎3億年の遅れ


植物による光合成は、美しいまでに無駄がない。外部からの有機物を必要としないだけでなく、受けた光を100%使い切ることもできるのだ。

受けた光子に対する、反応に使われた光子の数を「量子収率」というが、植物のそれが100%であるのに対して、人工的なそれは現在のところ、わずか1~2%にすぎない。つまり、植物のそれの100倍も遅れているのである。

植物が光合成により量子収率100%を達成したのは、32億年前と言われている。これに比較すれば、人類の実力はそれよりも3億年は遅れていると言う人もいる。





◎世界ですすむ人工光合成


それでも、今後何年かでこの3億年の遅れを取り戻そうと、世界中で研究が進んでいる。

アメリカは5年間で100億円という破格の研究費が割り振られ、お隣り韓国でも年間4億円が10年間も人工光合成の研究に使えるようになった。そのほか、ヨーロッパ、中国…、むしろ主要国でこの研究をしていない国はないともいえるほどである。

そんな中、「ゆがんだ椅子」を発見した日本は、世界に一歩先んじている。たとえば、光を利用した「光触媒」の分野では、日本は他の追随を許さないほどダントツである(その発見も日本人)。



◎日本の技術


ただ従来の光触媒というのは、植物の光合成の足下にも及ぶものではなかった。特殊な薬品(犠牲薬)も必要とすれば、外部からの電気エネルギーも必要とし、太陽光の5%しかない紫外線しか利用できなかった。

ところが昨年、トヨタは世界初の「完全」人工光合成に成功した。植物が32億年前に成し遂げた、水と二酸化炭素のみを原料に、太陽光から有機物を合成したのである。この原理を応用すれば、メタノールなどの液体燃料を生み出すことも可能だという。



ただ現在、その変換効率は悲しいほどに低い。「その値は0.04%であり、これは一般的な植物の光合成効率の5分の1程度です(豊田中央研究所)」。

それでも、この一歩の価値は極めて高い。その一歩がどれほど小股であろうとも、止まっていたものが進み出すということには大きな意義がある。

人工光合成は、人類にとって200年来の夢であり、そろそろ行き止まりの見えてきた現代文明のエネルギーにとっての切なる希望なのである。





◎ゆがんだ椅子が転げる前に…


沈教授による「ゆがんだ椅子」の発見は、20年もの歳月を要した。しかし、別の見方をすれば、一個人が「たった20年」で、200年来の謎の答えの一端を開いたのである。

ある人が言うには、「太陽光の変換効率が5%はないと企業は動かない」という。今のところ、その数字は夢のような値だが、世界はすでにそこに向けて動き出しているのである。



「ゆがんだ椅子」は光合成の触媒のみならず、人類にとっても次の時代への垣根を低くしてくれた偉大なる触媒である。椅子が歪んでいるがゆえに、そこに安住はできない。

現代文明の作り出した社会も、いよいよ歪みが大きくなり、座り心地が悪くなりつつある。新たな時代を開くのは、つねにこの種の不安定さでもあるのだろう。

はたして我々人類は、植物という大先生に倣うことはできるのか、そして、その椅子が転げてしまう前に、次の道へと旅立つことができるのか?





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出典:
2011年 科学10大成果 ―ついに解明、光合成 最大のナゾ―

沈 建仁 氏(岡山大学 教授)、神谷 信夫 氏(大阪市立大学 教授)「光合成、残された最大のナゾを解明」

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