「リース」は生まれた時から、「免疫システム」が正しく機能しなかった。
「風邪をひいただけでも命を落とすかもしれない」と言われた両親は、「1歳の誕生日を迎えるのがやっとだろう」と覚悟していた。
頼みの綱だったのは「骨髄移植」のみだったのだが、不幸にもなかなか適合者が見つからず、その道は諦めざるを得なかった…。
あれから9年。
9歳になったリースは元気に走り回っている。
生まれつき欠陥のあった免疫システムは、今では強く健康だ。
9年前のあの日、たった30分の治療がリースを生まれ変わらせたのだ。
それは「遺伝子治療」。
変異した遺伝子に代わる「正常な遺伝子」を骨髄に注入した結果、リースの免疫システムは正常化したのだ。
絶望していた両親は、跳ね上がらんばかりに驚喜した。
「まるでイングランドの強いサッカーが復活したみたいだったよ!リースが復活したんだ!」
9年前と言えば、医学界にある金字塔が打ち立てられた年でもある。
それは「ヒトゲノム(人の遺伝子)」の解析完了である(2003)。
リースは幸いにもその恩恵に預かったのだ。
こうなってみると、骨髄移植の適合者が現れなかったのは、むしろ幸いだった。そのお陰で、リースの両親は「新しい治療法」にチャレンジするという勇気ある決断を下せたのだから。
そして、リースは「幸せな成功例」となったのだ。
「ヒトゲノム計画」は30億ドル(当時のレートで4500億円)もの大金を投じられて、1990年にアメリカでスタートした。
予定よりも2年早い2000年には、その下書き(ドラフト)が完成し、、2003年には完成版が公開された。
そこには「ヒトの遺伝子の99%の配列が99.99%の正確さで含まれている」とされている。
※遺伝子がDNAに存在し、それらが2重ラセンの構造をしていると分かったのは、1953年。すると人類は、その構造を明らかにしてからわずか50年で、30億以上あったその配列一つ一つを正確に分析し終えたことになる。
時は21世紀に突入したばかりで、この朗報は人類に大きな希望を与えた。
トニー・ブレア元イギリス首相は「医学の革命」であると賞賛し、ビル・クリントン元アメリカ大統領は「病気の治療法が大きく変わる」と謳いあげた。
「錠剤を飲むだけでガンが治る世界」
「注射一本であらゆる病気が治療できる世界」
人々はそんな未来を夢想した。
あれからほぼ10年。
確かにリース少年のような幸福なケースはあった。
しかし、その治療法はまだまだ道の途上にあることを認めざるを得ない。
「嚢胞性線維症」を患うソフィーは、肺にタンが絡むという遺伝子疾患を持っている。「CFTR」という遺伝子がわずかに変異しているのだ。
遺伝子の疾患だけに、その治療は遺伝子療法が期待されるのだが、「肺」という器官のもつ特性がその治療を困難にしている。
外界と直接接点をもつ肺は、外部から送り込まれる「正常な遺伝子」を異物と判断するため、それらを受け入れてくれないのだ。
ソフィーには時間がない。
タンが取り切れなくなるのが早いか、医学の進歩が早いか…。
彼女は走り続ける。走ると咳が出るのだが、そのお陰でタンが外へ出せるのだ。彼女は医学が追いついてくれるまで走り続ける…。
別の女性・エマは「BRCA1」という遺伝子に欠陥がある。
そのため、ガンにかかりやすい。彼女の母も祖母も、若くしてガンで亡くなっている。
彼女が最も悩んだのは、子供を産む時であった。
「この遺伝子の欠陥を、次代に受け渡しても良いものか?」
深く悩みながらも、彼女は子供を産む道を選んだ。
彼女は賭けたのだ。医学が進歩し、彼女の子供が大人になる頃には、遺伝子が正しく修正されることに。
トムの問題はアルコールだ。
飲まずにはいられない。ひどい時には一日で10リットルものビールを飲んでしまう。
そんな荒んだ彼の心を安らかにしたのは、一匹のネズミであった。
そのネズミは「アルコール・マウス」と呼ばれるネズミで、水よりもアルコールを好んで摂取する。
何のストレスもない状態に置かれていても、水よりもアルコールを選ぶ。そして、人間で言えばウイスキーを2瓶も空けるほどに飲む。
それは遺伝子に異常があるからである。
トムは15年間もアルコール依存症で悩み続けたが、たった15分間、このネズミを見ていただけで、それまでの悩みが氷解していった。
自分だけがダメなのではなかった。もともと遺伝子が違っていたのだ。
人間の遺伝子の全貌になってから、およそ10年。
その治療法は、人々の期待通りには進まなかった。実際に薬が開発されるまでには最低でも15年はかかる。早くとも、あと数年は待たなければならない。
遺伝子の地図は明らかになっても、そこを旅するにはまだまだ時間と経験が必要なのだ。
どれほど詳細な世界地図が存在したとしても、それを見ているだけでは世界を知ることに直接はつながらない。
そこには多種多様な人々が暮らし、異なる考え、異なる行動が幾多とあるのだから。
それと同様、ゲノムの「解析」イコール「解決」ではなかった。
10年前に新しい時代が訪れることを「期待」した人類は、いまその「実現」を切望している。
ソフィーも、エマも、トムも、新しい治療法にすがるしかないのである。
そんな彼ら彼女らは信じている。
「未来はそう悪いものではないはずだ」、と。
実際、人類の歩みは着実に進んでいる。
ただ最初の期待が大き過ぎたため、その歩みが遅く感じられているのかもしれないが…。
遺伝子医療革命
―ゲノム科学がわたしたちを変える
出典:BS世界のドキュメンタリー シリーズ
医療研究の最前線 「奇跡の治療法を求めて~ヒトゲノム解読の成果は?」
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